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 高江町は、貴重な自然と歴史、そして地域住人による町おこしなど魅力あふれる地域です。この地域に来て、この町の魅力と人情に触れると、現代人が忘れかけていた大切なものを思い出すことができます。ここでは高江町の魅力を紹介していきます。




高江の歴史 史跡・記念碑 城跡



高江の歴史

 1135年(保延元年 平安時代末期)の古文書に宮里郷という地名が出てきます。この宮里という地名は現存する地名で、高江町に隣接して宮里町があります。宮里郷の存在から推測されることとして高江町は宮里一族が治めていたと考えられます。宮里一族の中の正信という人が宮里郷の高江の地を分譲してもらって高江姓を名乗り、以来代々高江氏が高江の地を治めていたようです。1300年の古文書には高江の地名が残されています。

 高江氏は鎌倉時代には峯ヶ城を居城としてこの地方を治めていたようですが、文中元年入来院一族に攻め落とされた後、薩州家島津氏領となりました。1595年(文禄4年)安土桃山時代には短期間、北郷三人の私領となります。その後島津宗家の直轄地として地頭がおかれました。



  年  代          お も な で き ご と
1300年以前  宮里郷として、宮里氏一族が治める。宮里一族の正信が宮里郷内の高江の地を分譲され高江姓を名乗り代々治める。
1372年頃 島津師久、峯ヶ城築城。入来院一族、峯ヶ城を攻略
1583年 長崎寺六地蔵
1587年 豊臣秀吉、島津征討のため水軍、川内川河口に4月28日入り。猫岳で地形観望。陣をかまえる。(1夜城)島津義久和睦(太平寺にて)
1595年 北郷三人の私領となる。
1597年 島津氏の直轄地となり、島津義弘外征
1637年 久見崎に藩直轄の造船所ができる。
高江麓の庚申供養塔造立

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史跡・記念碑


小野仙右衛門顕彰碑 小野仙右衛門顕彰碑


 延宝7年(1679年、江戸中期)
工事奉行小野仙右衛門は8年の歳月をかけ全長700mの長崎堤防を築き、250町歩の新田を干拓しました。村民は大いに感謝し、小野神社を創建。毎年11月16日、300年たった今も感謝して祭祀を行っている。
長崎堤防 長崎堤防


 島津19代藩主光久は小野仙右衛門を工事奉行として1679年に大規模な干拓工事を命じ1687年に竣工。それまでは何度堤防を造っても、地形的に川内川河口から直線上にあるため、決壊をくりかえしていたが、のこぎり型の形状で水の圧力を分散させる工夫がこらされている。
水道記念碑(瀬戸地) 水道記念碑(瀬戸地)

  
 瀬戸地、郷鴫、白石ヶ城地区。渇水期水不足のため官位水道を設置した記念。
高月寺跡(諏訪山)
高月寺跡(諏訪山)

  
 地名に高月寺があったことを物語っているところがあり、古石塔が三十基近くあり、その中にここに寺があったことを示す記述がある。しかし、いつ頃開基されいつ廃寺になったかしっかりした記録がない。入来院が峯ヶ城攻撃の折、迷修塔を建て、成仏を念じたと推測されている。
江之口橋(八間川) 江之口橋(八間川)
  
 八間川は南側の山に降った雨水を川内川に導くため、1848年から1849年にかけて川幅8間に広げて人工的に広げた川であり、ここに長さ18m、幅3.5m二連石造りのめがね橋を名工岩永三五郎が薩摩を出る最後に造った橋が江之口橋です。
デカントモ(代官塘)
デカントモ(代官塘)

 延々と伸びている石垣。長崎堤防がつくられる以前に代官が築いたといわれる堤防で古くから干拓の努力の後が感じられます。

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城跡


 薩摩、大隅、日向には平安末期から鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山と長い間にわたり多くの城がありました。薩摩の国の中でも特に薩摩郡高城郡は、その土地の昔からの領主の昔からの勢力範囲に島津氏、そして渋谷五兄弟が入部してきたので、お互いの勢力が入り乱れました。領地獲得の必要から各地に主城と支城が設けられました。その多くは攻撃をしかけてきた敵を防ぐのに都合のよい山城で、まわりに田や川などを張り巡らした孤丘に作られたものが多かった。高江では主城として峯ヶ城、その支城として検見ヶ城、城山城(東の城、西の城)、白石ヶ城、本峰本城があります。
峰山本城跡(現峰山小学校)
峰山本城跡(現峰山小学校)

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